そのツアーは私達の居住地山口県下関市と、中国の三東省青島市(チンタオ)との間の友好都市締結一周年を記念して催行された友好訪中旅行です。当時の山口県知事、県会議員、下関市長、市会議員、行政の担当者、報道陣そして下関少年少女合唱団と一般募集の参加者が含まれていました。もちろん、私とカミさんは一般参加です。
そして、チンタオ市は、ヨーロッパ列強が中国を蝕んでいた植民地時代はドイツの占領地でした。1914年、第一次世界大戦が勃発すると日本がドイツに宣戦、そして、今度は日本がチンタオ市を占領してしまいました。その占領は第2次世界大戦の終結まで続きます。だから、この「日中友好の船」と名づけられた訪中団の参加者の中には、終戦までチンタオ市に住んでいた人達が随分含まれていました。その人達にとっても、この旅行は重大な意味が含まれていた事でしょう。
そのチンタオ市は、黄海に面した港町で、下関市と同じ様に港を持つ地方都市と云う事で、友好都市になったようですが、当時人口は約500万人もいて26万人の下関市とは比べるべくも有りませんでした。しかし、27年前の中国ですので、その経済力の違いは明らかで、私の素人判断でも日本と中国の国民一人当たりの所得の差は40倍ぐらいだったと思います。
そんな、それぞれの思いを抱いた500人もの人達を乗せて「初代ゆうとぴあ丸」は1980年10月1日、下関港を出航しチンタオと天津、北京を訪問すべく朝鮮海峡を横断し、黄海へと入って行きました。
あれは、今から27年も前の1980年のことですが、私達夫婦は中国で想像を絶する体験をしました。私達だけでなく、その時一緒だったツアーの参加者の皆さんは「とてつもない体験」をしたと思っておられると思います。総勢500人の、そのツアーに参加された人達の平均年齢は65歳を超えていたと思います。だから、現在では、少なからず亡くなられた方もいるのではないでしょうか?

当時、私は33歳で、小さな建設会社に務めていましたが、その会社の中堅として、最前線で最も忙しく働いている時代でした。10日間の休みなど、とんでもない話でした。でも、何か目に見えぬ力が私をその旅行へと掻き立てたのです。社長に直談判して参加を許可してもらった時は、自分の人生の大きなターニングポイントになることを予感していました。