次の日の朝、ホテルを出発して、直ぐに愕きました。チンタオ市は人口500万人です。町の中には、人も車もトロリーバスも自転車もあふれかえっています。ところが、私達の乗ったバスはゆっくりですがノンストップで走っています。バスの中から気を付けて見ると、町の中の大きな交差点には信号機も有ります。でも、私達のバスはノンストップです。前方を注視していると、すごい数のお巡りさんです。そして彼らは、私達のバスを見つけると、至るところで人や車やトロリーバスや自転車を制止しているのです。つまり、私達のバスが止まらずに走れるように、他の人達を全て制止しているのです。

中国(青島・天津・北京)
チンタオ港埠頭

その後、バスに乗って港を離れた私達は、チンタオ市主催の歓迎レセプション会場に行き、そこで夕食をいただいた後は、楽しみにしていた京劇の観劇です。再度バスで劇場まで移動すると、おどろいた事に、そこには先ほどの子供達が、歓迎のため再び待ち構えていました。私達は、彼らが一生懸命振る日中両国の小旗の道を通って劇場に入りました。もちろん、京劇は素晴らしいものでした。多分中国でも有名な劇団だったのでしょう。時間近い観劇が終わって劇場の外に出ると、さらにびっくりだけど、今度は、あの子供達の見送りです。

1980年10月1日〜10月10日

チンタオ2日目と3日目は、各班に分かれての工場見学と観光でした。この時の訪問団は総勢500人です。当然大多数では、動きにくい為、各班15人から20人ぐらいの小人数グループに分けられていました。多分、バスの大きさの関係だと思われます。つまり、チンタオには大型観光バスは一台も無かったのだと思います。訪問団の移動に使われたバスは全て日本の路線バスの中古でした。だから、降車の合図のボタンには日本語などがそのまま残っていました。大きさも路線バスとしては中型以下のバスばかりでした。

2007年 初掲載
青島の熱烈大歓迎
各工場見学の入り口風景

こんな事、信じられますか?もちろん、今の中国では起こらないでしょう。でも、27年前には本当に私達が体験した事なのです。その時、チンタオ市には中央政府から特別命令が出ていたのか、それとも、単にチンタオ市長の権限なのか、私達には分かりませんが、間違い無くチンタオ市の交通は我々の為に完全制御されていました。

2025年8月26日 リアップ
青島市内の風景
次ページ

お巡りさんも大変だったでしょう。何時、何処から来るか分からない我々訪中団のバスを待って、500万人都市の至るところで待機していた訳ですから。それに出くわした市民の皆さん、いきなり笛を吹かれて青信号でもストップですから。現在の日本なら、暴動すら起きかねません。でも、私達が滞在した2日間のチンタオ市は、そんな異常な状態だったのです。

前ページ

訪中団は3536の小班に分かれていました。当然バスの数も3536台です。ちなみに各班には中国の添乗員さんと政府の役人各一人が添乗していました。そして、各班の行き先は、前もって知らされていませんでした。当時の中国旅行は皆こうだったのです。詳細は日本の旅行代理店にも知らされていません。私達は当日の朝、行き先を知らされました。だから、チンタオ市民は当然、私達の行動を知らされている訳が有りません。私達のバスが見えたら、街角に配置されたお巡りさんが、その都度、市民を制御していたのです。

すでに時刻は夜の11時過ぎでした。こんな事、絶対に日本じゃ考えられません。船が着岸する前の時頃から夜の11時まで。子供達を政治がらみの行事に此れほど長く拘束するとは。もちろん、予定では9時頃には終わる事になっていましたが、下船が遅れた事に加えて、チンタオ市にとっては戦後始めての外国旅行者の受け入れだった為に時間がずれ込みました。それにしても、日本の親御さんなら絶対に許さないことでしょう。そんなチンタオ市民の熱烈大歓迎は次の日も次の日も続きました。

ところが日本の客船の入港は、チンタオ市にとって始めての事だったので、入国通関手続きに予想以上の時間がかかりました。接岸してから私達が全員上陸するのに2時間ぐらいかかったでしょうか?それから、コンコースでの、日中両国のおえらい人達の挨拶です。その間子供達はコンコースの同じ位置で立ったまま待機です。そして最後に彼らの歓迎演奏と踊りでした。天気は快晴だったので、この程度の子供達の犠牲なら私も愕きませんでした。

そんな重要な背景が有った事など、当時33歳だった私は気が付きもしませんでした。だから中国側の異常なまでの熱烈大歓迎に、ただただ驚くばかりでした。最初にびっくりしたのは、到着初日の夜の子供達です。彼らは日本の小学生と同じぐらいの年齢でした。私達の船は夕刻のまだ明るい内に、チンタオ市の広大な商港岸壁に接岸しました。そのコンコースには、首に赤いスカーフを巻いた制服姿の子供の大歓迎隊が待ち構えていました。鼓笛隊もいます。その数おおよそ300人です。

私達が参加した、この訪中行事は、中国と日本の間の長くて複雑な歴史的背景が、かなり大きく影響していました。もちろん日中戦争が最大の影響要素です。日中戦争と太平洋戦争の終結が1945年の8月で、この訪中が1980年の10月です。つまり、戦後35年後にして始めて行われた地方都市同士の親善訪問です。この訪中行事が成功するか否かは、両国に取って、将来の友好関係を占う重要な要素も存在していた訳です。

チンタオ港埠頭での歓迎風景
トップ
ホーム