だから、毎日毎日テレビを観て生活していると、10代前半の少年にも自然と「西側の資本主義は正しくて、東側の社会主義は間違っている」と受け止められます。しかしそれは、日本政府がプロパガンダしているのではないか?、そして、国民は政府にコントロールされているのではないか?と云う疑問が、私の中で、次第に大きくなって行きました。だって、私達は社会主義の国々のことを知らないで、西側社会の発する一方的な情報の中で生活している訳だから。なのに、廻りの大人達(両親や親戚の大人や学校の先生も)は、ほとんどの人達が疑問を持たずに日本の競争社会の中で平気な顔して生活している様に見えたし、また、子供にも、そうすることが正しい生き方だと押しつけていました。誰も、私の疑問に答えてくれませんでした。
つまり、こういうことです。私の父は太平洋戦争のインドシナ戦線から九死に一生を得て昭和21年に帰国しました。翌年の昭和22年に生まれた私は、いわゆる、団塊世代の初年度の一人です。日本が戦後の混乱期を克服して目覚ましい経済復興を進めている昭和32年、私が10歳の時、我が家にテレビがやって来ました。もう毎日がテレビに釘付けでした。その頃は、第二次世界大戦後の東西陣営の冷戦が顕著になった頃です。そんな中、私は毎日毎日アメリカナイズされた多くのテレビ番組を夢中になって見ていたものです。
今、この1980年の中国旅行を思い出してみると、我ながら驚嘆してしまいます。国の体制の違いが人間の感情の有り方にこうも大きな違いを引き起こしてしまうのか。あの時、北京への道で出会ったトラックの荷台の人達を、私は可哀想だと思いながら眺めていました。でも、彼らは心底から歓迎の気持ちで私達を見ていたのかも知れません。そして、この旅行が自分の人生のターニングポイントになったことを確信します。

そんな状態の中で、この日中友好の旅に出会えた訳です。そして、プロローグへとつながります。たった10日間の訪中の旅でしたが、そこで見聞きした中国社会の現状は、私に「おまえは既に拝金主義の汚れた日本の社会に首までどっぷりと浸かっているじゃないか。おまえには社会主義の国を語る資格などないよ!」って云われているようでした。
「百聞は一見に如かず」まさにその通りです。物心付いた頃からの私の東西冷戦に対する疑問は、この旅行で、かなり払拭することが出来ました。その結果、私は現状の日本社会に溶け込む勇気を与えられた様でした。そして、「少しでもいいから、生きてる間に出来る限り沢山の外国を訪問したい」と云う夢を作ってくれました。
当時、東大紛争に代表される学生運動が頻発していましたが、まだ、高校生だった私の廻りでは、そんな運動に参加する高校生はいなかったので、一人悶々とする日々を送ってしまいました。そして、いつしか倦怠感に包まれて、徐々に私は落ちこぼれて行きました。でも、根が臆病なので、最低ラインだけは踏みとどまっていたのでしょう?会社員にもなれたし、結婚をすることも出来ました。しかし、拝金主義の日本の社会の中には積極的に入って行くことが出来ず、毎日の生活はネガティップなものでした。
当時の首相池田勇人が「日本は、もはや戦後ではない」と宣言して、日本は西側陣営において確かな地位を築き上げていた頃、私は高校生になっていました。しかし、ビートルズが来ても東京オリンピックが開催されても、率直に楽しめない何か心の中に腑に落ちないわだかまりが私の中に生まれていました。世界には日本と違う政治体制の国々が存在して東西冷戦の一方の陣営を形成している訳です。テレビには、連日、モスクワの赤の広場やクレムリン、北京の天安門広場が映し出されて、東西対決の情報を流していました。