帰りは、そのホテルのドアボーイにタクシーを尋ねると、ロビーの隅にいた4人の男達が寄って来て、私達のホテルまでは2ドルだと言います。来た時の2倍近いけど、相手は4人です。夜道をうろうろするわけにもいかないし、気が付けば車は新しい日本車です。2ドルの為に危険を犯す事はないと、おとなしく彼らの値段にOKサインを出しました。帰りの道すがら、値段の話しばかりしていた私達は、ホテルの近くに来るまで、町の電気が復旧していることに気が付かず、ホテルのロビーの明々と灯る照明に一安心してエレベーターに乗りました。その瞬間、私は自分達の幸運に、はたと気が付いたのです。もし、約3時間前、ほんの1分か2分早く部屋を出て、このエレベーターに乗っていたら、私達はエレベーターに閉じ込められて悲惨な年越しをしていたかも知れなかったのです。寝過ごしたのが幸いしたようです。そんなハードな一日を過ごした私達は、2001年の大晦日の夜にもかかわらず、疲れ果てて、あっと云う間に眠りに落ちてしまいました。
そして、この凱旋門は、私達のホテルが有るランサーン通りの北東の端に建っていて、そこから、3本の道路が郊外に向けて伸びています。反対側の南西に進むとメコン川に突き当ります。その距離はおおよそ1kmです。だから、凱旋門の展望塔に登ったらメコン川が見えるンじゃ無いかと思ったけれど、そこは、普通のビルの5階ぐらいしか高さが無くて、メコン川の水面までは見ることが出来ませんでした。その代わり、ビエンチャンの町全体が見えました。
と言う事で、ワット・ホー・パケオを出たのは、入場時間の終わる4時近くでした。後は、ホテルまで道のりをテクテクと、と云うより、一応歩道の形になっているンですが、でこぼこの無舗装で、さらに、どう云う訳だか下水道のマンホールらしき処に、ほとんど蓋が無くて、なおかつ水溜りも避けながら、ランサーン通りを帰って行きました。ホテルに帰り着くと夕食まで一寝入りです。ところが、この後ハプニングが。
ラオスの穏やかな風
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2001年12月31日
5階建ぐらいのビルの屋上の高さから町全体が見える。つまり、それって、ビエンチャンの町がそれほどちっちゃいと云う事です。直ぐ近くに有る私建ちの5階建てのホテルが大きく見えました。そこで私達は考えました。こんなに狭い町ならば、そして、町の中のみどころも、数ヶ所しかガイドブックに載ってない事だし、今日1日歩けるだけ歩いてみようかと。
2日目
ワット・ホーパケオ
始め、行き先を告げると、そのトゥクトゥクの運転手は、10,000キープだと言います。でも、マネージャーが5,000キープにしろ!と言うと5,000キープになってしまいました。約75円です。距離は2kmぐらいでした。その値段をしっかりと頭にインプットしてレストランに入ったら、またまた、にんまりとする事が私達を待っていました。
1階のロビーにはローソクが灯して有りました。スタッフは皆、何事もない様に静かにたたずんでいます。他に客はほとんどいない様です。スタッフの誰も私達に状況の説明をしようとしません。私はちょっとむっとなって“マネージャーはいないのか?”と大きな声を出したら、それらしき人がやってきて、“火事は離れているので心配は要りません。でも、電気の復旧は何時になるか分かりません。”って暢気な声で言います。私もはたと気が付きました。腹をたててもしょうがないって事に。取りあえず危険は無さそうだし、ここにいてもしょうが無い事だし、予定通り他のホテルのレストランに行くとマネージャーに告げると、彼は表の通りを走っていたトゥクトゥクを1台捕まえてくれました。この事が次ぎの日の行動に大きな影響を与える事になりました。
目が覚めると7時過ぎでした。外は日が暮れています。その日は大晦日なので、夕食に他の豪華ホテルのレストランで民族舞踊と音楽のショーを見ながら優雅に過ごそうと思っていた私達は、慌てて外出の用意をして廊下に出ました。その時です。突然廊下の明かりが全部消えて真っ暗闇になってしまいました。部屋に戻って照明を点けようとしましたが、点きません。窓から外を見ると、近くの町の灯りも全て消えています。そこへ、消防車のサイレンが聞こえました。
でも、空振りでした。ゆっくり回って見ても、それほど興味の沸く見所は、やっぱり有りませんでした。しいて云うならば、両方の寺院の入場料が一年前に発行されたガイドブックの値段の倍になっていた事です。それも、古い料金表の1000キープと書かれた直ぐ下に、真新しい文字で、外国人2000キープとはっきりと書かれていました。それにしても、この時のレートで換算して、日本円で約30円です。さすがのカミさんも、この時ばかりは、“値段が倍になっても、文句も言えないわね”と静観でした。
その後は、前日、旅行社の人達に連れて行ってもらった、ワット・シーサケートとワット・ホーパケオに再び行って見ました。なんせ、他にこれと言ったビューポイントが無いからです。それに、昼食のレストランからランサーン通りの三叉路まで歩いて戻ると、二つの寺院は、もう直ぐそこの見える処に有ったからです。さらに、昨日は3人ものラオス人が私達の見学を待っているかと思うと、落ち着いていられなかったので、今日はゆっくりと見学しょうと思ったのです。
3日目へ
プロローグへ
そして、やっぱり、その安さに驚きました。ガイドブックに載っていて、こんな伝統的料理を食べられたら良いなーって思っていたとおりの料理でした。ボリュームもたっぷり有って、当然食べきれませんでした。飲み物をオーダーする時にちょっと気が付きましたがワインはすごく高いのです。コーラはそこそこの値段でビールはコーラより安くなってます。つまり輸入品は高いけど、ラオスで作るビールは極安なのです。それでも支払いの時、ひょっとして、ショーは別料金かなって思ったけれど、タックス以外チャージされる事は無く、こんな料金で良いのかな?って思ってしまいました。
ちょうどショーが始まったばかりでした。大きなレストランで、2組ほどの日本人グループがいましたが、あとは殆ど西洋人のグループでした。どう云う訳だか、そのど真ん中のショーが見やすい場所に6人掛けぐらいの丸テーブルが空席で、私達はそこへ案内されました。ビップ席みたいな感じでラッキーだなと思いながらテーブルの上のメニューを見ると、伝統的ラオス料理のセットと言うのが有って、なんと5ドルと書いてあるではないか。こんなビップ席みたいな処で、たった一人前5ドルの料理をオーダーしても良いものかと思案したけれど、そのメニュー自体立派だし、昨日の中華の件もあることだし、恐れることは無いと自分に言い聞かせて、二人とも同じ料理をオーダーしました。
ランサーン通り
ワット・シーサケット
セタティラート通り
フランスレストラン
タラート・サラ、奥がタラート・クワディン
反対側には郊外に向かう3本の道があります。
凱旋門から振り返って見たランサーン通り。
突き当りはメコン川、タイとの国境です!
凱旋門の向こう側は、もう郊外です!
ラオスの凱旋門
一瞬パニックになりそうでしたが、サイレンの音は遠くです。それに、ホテルの中からは物音一つしません。じっと、そこにたたずんで聞き耳をたてていたら、しばらくして廊下でかすかな日本語が聞こえてきました。そっと、ドアを空けて様子をうかがうと、さっき、ホテルに帰った時、ラオスに来てから始めて会った日本人夫婦の奥さんが、部屋の中のダンナさんに話しかけています。私は、少し安心して声をかけました。そしたら、その奥さんの所からは階段がかすかに見えるので、下りられそうだと言います。私達の階は最上階の5階です。照明のつかない部屋にじっとしている訳にはいきません。怖がるカミさんの手を引っ張って、壁伝いに階段を下りて行きました。
出入り口に戻って来て一安心!
 気が付くと昼の1時半を過ぎていました。昼ご飯を食べなきゃっと、表のランサーン通りに出て、又、メコン川に向かって歩くと直ぐにセタティラート通りに突き当たました。ガイドブックでは近くにレストランが何軒も有ります。でも、何と無くイメージと違うので、ナンプ広場まで歩いて行くと、広場に面して少し洒落た感じのレストランが2軒有ります。両方とも表はオープンエアーのテーブルになっていて、西洋人が陣取っています。その中に混じってランチを食べ様かと思ったけれど、真昼の気温は30度近く有ります。ぶらぶらと歩き疲れてるし、彼らの様にワインを飲みながら元気に騒ぐ体力はなさそうなので、クーラーの効いた奥のお店の中に入り、休憩を兼ねて昼食を1時間ぐらいかけていただきました。フランス植民地時代の名残なのでしょう、料理は本格的なフランス料理でした。が料金は、やっぱり、これでいいの?って云うぐらい安いものでした。
外気温は26,7度はあったと思います。でも意外と湿気が少無くて、汗が吹き出ることは有りませんでした。凱旋門を下りると私達は、ランサーン通りをメコン川に向かって歩きます。ホテルを通り過ぎてしばらくするとタラート・サオでした。そこは、ラオスで最大の市場です。2階建の市場は珍しく、かなりの広さを1階2階共歩き回りました。
ついでに、裏の通りに面する別の市場、タラート・クアディンにも入り込み、気の向く処を見て回るものだから、さすがの私も方向を見失い、カミさんと言い争いながらもなんとか元の入り口にたどり着き一安心したものです。
この日は、特別、時間に縛られて何処かに行かないといけと云う計画は無かったので、朝、目が覚めるまでゆっくりと寝て、朝食も、又、誰もいないレストランでゆっくりといただいて、そして、9時過ぎ、やっとホテルを出て、取りあえず直ぐ近くの凱旋門に行ってみました。この凱旋門は当然、パリの凱旋門を真似て造られたのでしょうが?、フランスから独立した後の1960年代から建設が始まったけれど、今だに完成していない様でした。ちなみに、内戦で戦死した兵士の為の戦没者慰霊塔だと言う事です。