2002年のロシア
レニングラード駅(現サンクトペテルブルグ行き)
唯一モスクワ川のクルージングの時だけ、2階席のデッキに居座って船の進行によって、少しずつ姿を変えて行くクレムリンの外観やモスクワの町並みを何枚も何枚も写真に収めていく事が出来ました。そして夕刻、グム百貨店での買物のため再び訪れた「赤の広場」は真に沈まんとする太陽の夕焼けで広場も空も全てが真っ赤に染まっていました。
私は限られた時間の中で、出来るだけ沢山写真を撮りたかったのです。その為に、低い太陽光線の逆光を少しでも避けようと、右へ左へと走り回っていたのです。その後、訪れた救世主キリスト聖堂、ノヴォデヴィッチ修道院、ヴァラビョーヴィ丘、モスクワ大学、ボリショイ劇場と何処へ行っても一緒です。緯度の低いモスクワでは真昼でも太陽高度は高くならず、私は逆光を出来るだけ避けて走り回らなければなりませんでした。
2002年5月2日
つまり、日本とロシアでは鉄道の駅の名前の付け方が反対なのです。日本では、駅の在る都市の名が駅名になっていますよね。東京駅は東京に、大阪駅は大阪に。ところがロシアでは目的地の地名が駅名になっています。だから、モスクワ市内には各地方に出発するために、その目的地の名前が付いた始発駅が合計9つも有ると云うわけです。レニングラード駅だとか、ベラルーシ駅だとか、キエフ駅などです。
この発想の違いが、最終日の自由時間に地下鉄に乗った私達をちょっとしたパニック状態に落し入れるの事になるのですが、その話しは又にして、取合えずサンクトペテルブルグ行きの「赤の矢号」に乗るために、私達は、夜の11時ごろレニングラード駅に到着しました。そこはモスクワとロシア第2の都市を結ぶ駅とはとても思えないほど、うら寂しくて、薄暗いところでした。私達のバスの駐車場が裏口だったのかも知れませんが、線路沿いにバスは止まり、コンコースらしきものは無くて、いきなり、本当に薄暗いプラットホームに上がった時は、なんだか、昔のソ連時代のスパイ映画の1シーンの中にいるようで、逆に興奮させられるものが有りました。
朝、目覚めると痛みは思ったより少なめです。ゆっくりと貼り薬を剥いで見ると、親指のちょうど前面の部分が真っ黒い血豆になっています。でも全体としては腫れも引いていて手で親指を動かして見ると、痛みは残っていますが、歩けないと云う程では有りませんでした。一安心してパッケージの観光に出かけましたが、ところが何処に行っても、親指が痛いにも関わらず、ゆっくりと歩くことが出来なくて、無理やり小走りを繰り返したので、夜には痛さが倍増し、かえって添乗員さんに心配をかけてしまいました。
右が「赤い矢号」
左は在来線
赤の広場よりクレムリンの大統領府を望む、手前はレーニン廟
モスクワ川から見たクレムリンの裏
クレムリン大宮殿
ボリショイ劇場
ヴァラビョーヴィ丘
ノヴォデヴィッチ修道院
救世主キリスト聖堂
聖ワシリイ大聖堂
なぜ親指が痛いのに小走りを繰り返したかと云うと写真のためです。朝一番の観光は「赤の広場」でした。何十年にも渡って、事有るごとにテレビに映し出され、少年時代からの私の悩みの種の象徴だった、あの「赤の広場」です。ただゆっくりと歩いて見て回るには、私の感情は穏やかではいられなかったのです。さらに、朝9時の太陽の高度は低いのに、その光りの輝きは強烈で、どの被写体にもくっきりと陰影をつくっていました。
3日目
モスクワ大学
「赤い矢号」はすでにプラットホームに入っていました。車内は片側が通路で反対側にヨーロッパ調の壁で仕切られたコンパートメントが並んでいます。その室内は両側にベッドが有って、ベッドとベッドの間の奥にテーブルが有ります。テーブルの上には二人分の夜食が用意されていました。雰囲気はヨーロッパの高級寝台特急って感じです。
そして遅い夕食の後、私達が向かったのは鉄道のレニングラード駅です。あの有名な寝台特急「赤い矢号」に乗ってサンクトペテルブルグへ行くためです。ちなみに、レニングラードはサンクトペテルブルグの旧ソ連時代の呼び名です。そして、レニングラード駅はモスクワ市内に有ります。だけどモスクワ駅はサンクトペテルブルグ市内に有るのです。なんだか私達日本人には、ややこしいですね。