と云う事で、間違い無くその品物は輸出用に製造された品物でした。では、どうして、その輸出物が地元のスーパーの魚屋さんにぽつんと有ったかと言うと、それはそれ、ソビエト時代の習慣のなせる技、そんな地下のマーケットだからこそ、そこに有ったのでしょう。
2002年のロシア
02年5月3日
4日目
トロリーバスの停留所で
地下のマーケットで
じゃ、そこでも行って見るか!と出かけましたが、本当に廻りは5〜6階建てぐらいのアパートばかりです。道路は広いけど車はそんなに多く走っていません。所々にあるトロリーバスの停留所以外は、人影もまばらです。そんな静かな住宅地の郊外を15分以上歩いたけれど、スーパーらしきお店は見つかりません。諦めて帰ろうかと思ったとき、買物を済ませたような親子ずれの女性を見かけました。どこかお店はないかな〜〜と見渡していると、アパートの1階の倉庫のような入り口のドアが開いて、若い女性の二人ずれが出て来ました。
ホテルの裏はフィンランド湾に面した公園
プリパルチースカヤ・ホテルの正面
サンクトペテルブルグ中心から車で15分
巨大ホテルの表通りは住宅街
そんな思いがけなくラッキーな買物をした後のカミさんは自然に元気が出てくるのでしょう。ホテルへの帰り道、遠回りをしてフインランド湾に沈む夕陽を見に行こうと云うので、仕方なく、私は痛い足をかばいながら、カミさんの後に付いていきました。確かに夕焼けは何処で見てもすばらしいものですが、ユーラシア大陸の北西の端の海に沈む太陽をみるのは、自分の人生では、始めての事じゃないかな〜〜?、などと思うと自然に喜びがこみ上げて来る私でした。
実は、ロシアでは輸出用のキャビアのメーカーは1社だけだと思います(たぶん?自信は有りませんが他のメーカーは見あたらなかったので)。もちろんチョウザメの漁獲高が近年非常に少なくなったから製造が制限されている様です。そして、中身がベルーガの青色ビンとオシェトラの黄色ビンとセブルーガの赤色ビンと云う風にチョウザメの種類によって分けられています。値段の高いのは青、黄、赤で信号の順番です。大きさも28.4g、42.6gと56.7gの3種類です。g数が半端なのはオンスをグラムになおしたからだと思います。
それでも、私達はその黄色の2ビンをゲット出来て喜んでいました。実を云うと空港で下調べをした値段の半分だったからです。そんなバカなって思うでしょう。中身が違っているとか、メーカーが違うからだと思うでしょう。でも、私達は、しっかり確認していました。同じメーカーで同じラベルの製品だと。
お客さんは5、6人いたのでしょうか、場違いな私達に向けられた視線の中、肉屋さんやら、果物やさんと順番に見て廻っていたら、魚屋さんのショーケースの中の魚の間にキャビアのビンを見つけました。手に取って見ると700ルーブルと書いて有ります。見間違えていないか二人で確認したけれど、やっぱり700ルーブルです。ビンの蓋は黄色でした。それも2ビンしか有りません。私は「青色のビンは有りませんか?赤でもいいからもっと有りませんか?」と英語で聞きましたが、全然通じません。店の中は中年以上の人ばかりです。まったく英語が通じませんでした。
やっぱり、買物帰りと云う感じです。でも、その入り口は、どう見ても倉庫の入口です。近寄ってみると、小さな窓から、中に置かれているダンボール箱の積み重ねが見えます。そこへやって来たお婆さんに付いて入って見ると地下へ下りる階段が有ります。若い女の子がアイスクリームを食べながら上がって着ました。やっと安心して、私達はその地下へ降りて行きました。そこは日本のコンビニの2倍ほどの大きさの食品売り場でした。天井は3m以上有り、壁は真っ白いタイル張りです。床はコンクリートのままで、電気の配線は露出です。どう見ても雰囲気は倉庫です。
エルミタージュ美術館の見学の後、早めの夕食をすませた私達のグループは、バルチック艦隊の母港だったフィンランド湾に面した巨大なホテル、プリバルチースカヤホテルに7時頃チェックインしました。外はまだ、昼間のように明るいので、ホテルの近くを探索する事にしました。でも、フロントで尋ねると、「この当たりは住宅街なので、お店は近くに、在りませんよ」って、そっけない返事が返ってきました。それでも、フロントの前に立っていると、「10分ぐらい歩けばスーパーマーケットが一軒だけ在ります」と云う返事です。
エルミタージュ美術館の内部
エルミタージュ美術館の外観
昼食の後は、あの絢爛豪華なエルミタージュ美術館です。でも私達には「猫に小判」です。惜しむらくは知識不足です。折角の宝物も「オーロラ号」との出会いのような興奮は有りませんでした。その日、カミさんが一番喜んだのは、住宅街の小さなスーパーで見つけたキャビアの値段です。
オーロラ号
その船が目の前にいます。何万キロにも及ぶ日本とサンクトペテルブルグとの往復です。これはもう、写真に撮ってやらねば可哀想だ。もちろん、現在は博物館となっているので乗船できますが、パッケージツアーの惨いことに、私達には乗船する時間は有りませんでした。後ろ髪引かれる思いの私を無視してバスは次の目的地に向かって、あっさりと「オーロラ号」を後にしました。
オーロラ号
私は痛い足を無視して、バスが最初に「オーロラ号」を見た処まで、一生懸命引き返しました。やはり逆光を避けた写真の為です。その「オーロラ号」の事を知ったのは、今回の旅行の直前です。今から97年前の1905年に終結した日露戦争で、東郷平八郎率いる日本連合艦隊に対馬海峡で大敗をきしたバルチック艦隊の一隻がこの「オーロラ号」でした。当時、何ヶ月もかかてアフリカ大陸を迂回して、はるばるバルト海の一番奥まった処に位置する母港サンクトペテルブルグから日本を攻撃しに来たのに、日本海入り口の対馬海峡であっさりと日本海軍に負けてしまい、またぞろ何ヶ月もかかって母港に戻った船でした。
「赤い矢号
でも、残念がったのは、旅行から帰った後のことです。その時は、サンクトペテルブルグのモスクワ駅を出ると、私達の乗り込んだ観光バスは、直ぐに観光の中心地に入っていくものだから、足の痛みなど忘れてしまい、またぞろ写真に夢中になる私でした。そんな中でも一番興奮したのは、「オーロラ号」との出会いです。
その出会いは突然訪れました。サンクトペテルブルグ発祥の地ペトロハヴロフスク要塞を見学した後、私達の観光バスはピョートル河岸通りを大ネフカ川で左折します。すると、目の前に灰色の古い形の巡洋艦が現れました。現地のガイドさんが、「オーロラ号」です。と簡単に説明します。私はビックリして“止まって下さい!”と叫んでいました。もともとバスは止まる予定だったみたいですが、駐車出来る場所を捜して「オーロラ号」を通り過ぎてしまったのです。
深い眠りの底から、やっと目覚めたのは、到着時刻8時25分の30分前でした。カミさんを叩き起こし、慌てて身支度をしてる間に、列車はサンクトペテルブルグに着いてしまいました。そんな「赤い矢号」の旅だったので、結局、私達は汽車に乗り込んでから下りるまで一度も外の景色を見ることが有りませんでした。どんな窓が付いていたのかさえ記憶に有りません。多分、朝明るくなってからは、サンクトペテルブルグの郊外の雄大な景色が車窓の外には広がっていたであろうに。ロシアの大地を汽車で走る事は、もう2度と無いかも知れないのに。あ〜あ、残念!